
問いを持たない時間を、あなたは自由と呼ぶだろうか。
あなたは、いま何か問いを持っているだろうか。
はっきりと言葉にできる問いでなくてもいい。
気になっていること、引っかかっている感覚、
すぐに答えを出さなくてもいい何か。
それがないまま、日々を過ごしてはいないだろうか。
情報は流れ、次の刺激は自動的に現れ、
問いを立てなくても時間は過ぎていく。
考えなくても、決めなくても、日常は成立してしまう。
それは、とても穏やかで、安全な状態にも見える。
けれど、思考というものは、その程度で満足していいものなのだろうか。
あなたはいま、問いを持っているだろうか
問いを持つとは、
必ずしも深く考え続けることではない。
ただ、
すぐには受け入れられない感覚や、
そのまま流してしまうには惜しい違和感を、
一度、手元に留めておくことかもしれない。
もし、はっきりした問いが思い浮かばないとしたら。
それは、問いが必要なくなったからなのか。
それとも、問いを持たずに済む環境にいるからなのか。
問いを持っていない状態を、
あなたはどう感じているだろうか。
問いを持たない状態は、「思考の自由」なのか
問いを持たないでいるとき、あなたは軽くなる。
考えなくていい。決めなくていい。
立ち止まらなくていい。
その軽さは、自由に近い感覚を伴う。
少なくとも、不自由だとは感じにくい。
けれど、
思考が使われていない状態と、
思考が奪われていない状態は、同じなのだろうか。
もし身体が制限され、行動の選択肢が狭まったとしても、
それでもなお、
頭の中で考えることだけは残るとしたら。
そのとき、
問いを持つことは重荷なのか。
それとも、最後まで手放せないものなのか。
身体の自由と、思考の自由は同じものなのか
身体の自由は、失われればすぐにわかる。
動けない、選べない、行けない。
けれど、思考の場合はどうだろう。
問いを持たず、
流れてくるものを受け取るだけの時間の中で、
あなたは不自由だと感じているだろうか。
もし感じていないとしたら、
それは思考が自由だからなのか。
それとも、
思考が触れられていないだけなのか。
思考の自由は、
守られているから気づかれないものなのか。
それとも、
失われても気づかれにくいものなのか。
問いを持つ時間と、問いを持たない時間。
あなたは、そのどちらも行き来しながら生きている。
ただ、
どれだけ環境が整い、
どれだけ何も考えずに過ごせるようになったとしても。
それでもなお、
あなたの中に残り続ける思考は、
どんな扱いを受けているだろうか。
問いを持たずに生きることを、
あなたは自由だと感じているだろうか。
それとも、
自由であるはずの何かを、
使わずに置いているだけだろうか。

