AIを「使っている」のは誰なのか
私たちはAIに指示を出し、結果を受け取っている。
その意味では、AIは明確に「使われている道具」に見える。
けれど、選択肢の提示、文章の候補、思考の補助。
それらが日常に組み込まれるにつれて、
どこまでが自分の判断で、どこからがAIを前提とした判断なのかは曖昧になっていく。
AIを使っている主体は、
本当に常に人間の側にあるのだろうか。
道具と環境の境界は、どこで変わるのか
ハンマーや包丁は、使うときだけ手に取る。
一方で、水道や電気は、使うかどうかを意識する前に存在している。
AIは、そのどちらに近づいているのだろうか。
明示的に操作する存在でありながら、
気づけば「ある前提」として思考に影響を与えてはいないか。
道具が環境に変わる瞬間は、
性能の問題なのか、それとも私たちの態度の問題なのか。
その判断は、誰の言葉で説明されるのか
AIが関わった判断について説明するとき、
私たちは、どのような言葉を選んでいるだろう。
「そう提案されたから」
「一般的にそうだから」
「効率が良かったから」
そこには理由が並ぶが、
その判断を「誰のもの」として語っているのかは、はっきりしない。
私たちは、
言葉として差し出された説明を信じているのか。
それとも、
その背後にある判断の過程を信じているのか。
私たちは、どの前提をAIに委ねているのか
効率、正確さ、最適化。
AIに期待しているものは多い。
その一方で、
何を考えなくてよくなり、
何を疑わなくなっているのかは、あまり語られない。
AIに委ねているのは作業だけなのか。
それとも、判断の基準や思考の出発点なのか。
AIを道具として扱うこともできる。
環境として受け入れることもできる。
そのどちらが正しいかを決める必要はない。
ただ、どちらとして関わっているのかによって、
私たちの立ち位置は静かに変わっていく。
いま自分がAIと接しているその瞬間、それを「使っている」と言い切れるだろうか。
あるいは、
すでにそう呼ぶしかない関係になっているだけなのか。
その違いが、
どこへ向かうのかは分からない。
ただ、その問いの中に、
すでに私たちは立っている。






