続けられなかったとき、私たちは何を失ったと感じているのか?
行為が止まった瞬間に、実際に失われたものは何だったのか。
時間、成果、周囲からの期待、あるいは「継続できる自分」という自己像かもしれない。
多くの場合、続かなかった行為そのものよりも、
「そうあるはずだった自分」が消えた感覚が、失敗感を強めている。
もし失われたと感じているものが行為そのものではなく、
「続けられる人間でいたかった」という期待だったとしたら、
私たちは、どの瞬間からそれを「失敗」と呼び始めたのだろうか。
「良いとわかっている」は、どこまで行為を導けるのか?
理解と行動は、しばしば同じ線上に置かれる。
正しいと知れば、人はそれを実行できるはずだ、という前提である。
例えば、体に良いと知っている習慣や、
やった方がためになると理解している行動が、
何度も頭に浮かびながら、結局そのままになっていたことはないだろうか。
現実には、「わかっている」という状態は、
行為を保証しないことの方が多い。
それでも私たちは、できなかった理由を
知識不足や覚悟不足に回収してきた。
理解と行為のあいだにある距離は、
本来どれほど大きなものなのか。
その距離を、私たちは過小評価してこなかっただろうか。
続いている行為は、本当に選び続けられているのか?
ある行為が続いているとき、
それは毎回選び直された結果なのか、
それとも、選択をしないまま続いている状態なのか。
例えば、始めた理由は思い出せないのに、
気づけば日常の中に組み込まれている行為がある。
やめようと考えたことはあっても、
はっきりとやめると決めた瞬間は思い出せない。
習慣になった行為は、意識的な判断を必要としなくなる。
やめる理由を探すよりも、
続いている理由を後から言葉にすることも少なくない。
続いていることと、選んでいることは、
同じ状態として扱ってよいのだろうか。
やめられなさは、どこまで個人の問題として語られてきたのか?
やめられなさは、どのような言葉で説明されてきたのか。
やめられない状態は、しばしば個人の弱さとして語られる。
意志が弱い、管理ができていない、誘惑に負けている。
たとえば、やめたいと思いながら続いている行為について、
私たちは「自分がだらしないからだ」と結論づけて、
それ以上の説明をしないままにしてきたことはないだろうか。
その行為が、どんな時間帯に起きていたのか、
どんな状態のときに繰り返されていたのか、
どんな環境の中で自然に続いていたのか。
そうした要素は、最初から語られないままになってはいなかったか。
やめられなかった理由の多くが、
自分の性格や意志の問題としてまとめられてきたとしたら、
その説明の仕方は、私たちの次の行動にどんな影響を与えてきただろうか。
続けられなさは、どのように扱われてきたのか?
続けられなかった行為は、
多くの場合、途中で終わったものとして記憶される。
完了しなかったこと、形にならなかったこと、
そして「続かなかった」という事実だけが残る。
しかし、その行為が止まるまでには、
確かに続いていた時間があり、
繰り返されていた瞬間があり、
何度かは選ばれていた局面があったはずである。
それでも私たちは、
続けられなかったという一点だけを取り出し、
それ以前の時間を、なかったもののように扱ってはいなかったか。
もし続けられなさを、
「失敗の結果」ではなく、
「どこで止まったのかという状態」として捉え直したとき、
私たちはその行為を、どのように置き直すことになるのだろうか。
続けられなかったことや、やめられなかったことは、
いつの間にか一つの評価として記憶されてきた。
失敗だった、意志が弱かった、判断を誤った。
そうした言葉は、出来事を整理する代わりに、
考え直す余地まで片づけてしまうことがある。
あなたが「続けられなかった」「やめられなかった」と記憶している出来事は、
本当に一つの理由で説明できるものだっただろうか。
もし、続けられなさややめられなさを、
失敗ではなく「止まった状態」として見つめ直すとしたら、
何が違って見えてくるだろうか。
この問いを手放さずにいること自体が、
次に何かを始めるとき、
あるいは立ち止まるときの見え方を、
少しだけ変えるのかもしれない。






