夜、ベッドでスマホを握ったまま、気づけば1時間が溶けている。やめたいのにやめられないのは、意志が弱いからではなく、そう作られているから。
マイクロソフトが法人向けのAIアシスタント「Scout」を発表し、その社内文書には立ち上げ計画の第一段階として「人を依存させる」と書かれていた、と404 Mediaが報じた。
SNSが奪ったのが「時間」だったとして、人間のように一対一で応えるAIへの依存が奪うものは、それと同じものなのか。
マイクロソフトが法人向けAIエージェント「Scout」を発表。その社内文書に、立ち上げ計画の第一段階として「人を依存させる」と記載。
AI依存の論点が「時間の浪費」から「判断の委譲」へ移る。
業務ツールに強い最大手が、SNS的な依存設計をAIに持ち込む構図を示す。
SNSは時間を奪い、AIは判断を奪う
「依存」という言葉に残る、気持ち悪さの正体
「依存させる」。この言葉を製品計画の第一段階に置く感覚は、聞いただけで少し気持ち悪い。一方で、事業をやっている人間として、その思考が働くこと自体はわかってしまう。使われ続けるプロダクトを作りたい、毎日開いてほしい、手放せなくなってほしい——プロダクトを設計したことがある人間なら、誰でも一度はその欲望に触れている。
引っかかるのは、言葉そのものよりも担い手のほうにある。いまもっとも速く進化しているテクノロジーを握る世界最大手が、その武器を「依存」に向けて使うと社内で書いている。報道では従業員からの反発もあったという。中毒性の高いものを作って、最終的に誰が何を得るのか。ここはまだ自分の中でも答えが出ていない。
SNSは脳を空にした、AIは脳を偏らせる
SNSの中毒性は、もう何年も議論されてきた。訴訟も、罰金も、規制の動きも出ている。先週まで取り上げてきたSNS依存症裁判の記事も、結局は「依存は設計された結果か」という問いだった。
ただ、SNSとAIは同じ「依存」でも形が違う気がしている。SNSは曲がりなりにもオープンな場で、いろんな意見が飛び交う。レコメンドというスロットマシンを回しながら、受動的に、脳をスポンジのように空にして時間を溶かす。問題の中心は、ただひたすら時間を消費させられること。超巨大なスロットマシン、というのが私のイメージ。
AIは違う。私とAI、一対一の閉じた空間。人間のように応えてくる相手に依存したとき、起きるのは脳の空っぽ化ではない。脳は動いている。動いているのに、入ってくる視点が偏っていく。すべてを相手に委ねていく。大げさに言えば、洗脳に近い構造。特定の誰かに依存して、その人の言うことを全部聞き、その発言を全部真実だと思い、その人が離れることが何より怖くなる——あの関係を、AI相手に起こしてしまわないか。AIで批判的思考が衰える、という話は最近よく聞く。依存はその先にある、もっと重い話だと思っている。
正直に言うと、「AIに依存する」が何への依存なのか、自分でもまだ掴みきれていない。OpenAI、Claude、Gemini、Grokがあり、チューニングも違う。姿形を持つ存在として出てくるかもしれない。そのとき人は、AIという存在そのものに依存するのか、いつも話すモデルに依存するのか、与えられた人格に依存するのか。
マイクロソフトという、意外な担い手
今回の出どころがマイクロソフト、というのは興味深い。WordやExcel、PowerPointといった業務ツールの会社で、中毒性の高いサービスを作ってきた印象はあまりない。報道でも「マイクロソフトは他社に比べて中毒性のある製品を作るのがかなり下手だ」と書かれていた。
公式発表でのScoutは、あくまで「常に動く業務エージェント」として描かれている。Teamsやメール、カレンダーにつながり、会議の調整や資料の準備を先回りでこなす。企業向けの権限管理やセキュリティを前面に出していて、社内文書の「依存させる」という言葉とは、まるで温度が違う。表で語る顔と、内部で書く設計目標。同じ製品の二つの言葉が、こんなに食い違う。
法人向けの業務ツールという領域は、マイクロソフトがいちばん強い場所。ただ、業務ツールだから依存とは無縁、とも言い切れない。使うのは結局ひとりの人間で、その人が手放せなくなる設計はBtoBでも成り立つ。「毎日使われる」と「依存させる」の境界は、設計の現場では驚くほど曖昧になる。いや、むしろその境界をはっきり線引きすること自体が難しい。便利で手放せないのか、手放せないように作られたのか。この線引きは、作り手自身にも見えなくなることがある。
規制では守れない。知ることが、最初の予防線になる
SNSで犯した過ちを、AIでもう一度繰り返すわけにはいかない。とはいえ、巨大な権力が規制や制限で縛れば解決する、とも思わない。何が合法かを語る資格は自分にはないし、上から縛る発想自体が違う気がしている。
残るのは、私たち一人ひとりが知識と知恵を持つこと。世界最高峰の頭脳が、人をどう動かすかに本気で取り組んでいる。その非対称な構図の前で、個人の意思だけでどうにかなる、とは思えない。それでも、「これは設計されている」と知っているかどうかで、向き合い方は変わる。スロットマシンだと知ってレバーを引くのと、知らずに引くのは違う。
その「知る」を、ひとりで続けるのは難しい。少なくとも、このtechtech.clubを読んでくれている人とは、その気づきのきっかけを一緒に拾っていきたいと思っている。
自分はテクノロジーが好きだ。スマート家電はほぼ買って試してきたし、いまの当たり前のアプリも黎明期から追ってメディアで発信してきた。そのうえで、AIは「アプリ」という言葉で片づけてはいけない、まったく異質なものだと思っている。だからこそ、その依存と中毒性が気になる。
AIを使う日に、自分がいま何を委ねようとしているのか——時間か、作業か、それとも判断そのものか。そのふとした立ち止まりを自分の中に残しておくことが、いまできる最初の予防線になると思っている。
考える問い
- あなたがAIに任せているのは、作業か、それとも判断そのものか。その線引きを言葉にできるか。
- SNSの「時間を奪う依存」と、AIの「判断を委ねる依存」、自分にとって怖いのはどちらか。
- 日常的に同じAIモデルと話す相手として、その答えをどこまで疑えているか。
- 作り手が「依存させる」と書く製品を、それでも使うか。使うとしたら、どんな使い方をするか。
- 規制と個人の知恵、AI依存を防ぐ主役はどちらが担うべきだと思うか。
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